[貨幣考2] 貨幣のからくり、戦後憲法と財政法の呪縛

2018年11月11日独自コラム, 貨幣論

2022.1.6 書きかけたままホコリを被っていた草稿に手を入れた。資本主義のからくりについての論考である。今後も適宜、補筆してみたい。

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前説

現下の金融システムを続行する限り、国民は永久に搾取され続ける。おカネがそのように設計されているからだ。我々が豊かになれないのは個人に努力や才能が足りないからではない。また根本的には政府のせいでもない。

ひとえにおカネのからくりゆえである。

資本主義のからくり:銀行の特権性

端的にいえば、銀行制度そのものが資本主義のからくりである。

なぜ財政規律派が現在主流になっているのか(高度成長期は積極財政派が主流だったのだ)?経済成長はどうして国民を豊かにせず、むしろ貧困化するのか?政府の不作為の罪なのか?そもそも本当に政府は加害者なのか?

こうした疑問をいだいた者の眼は金融制度のからくりに向く。ここを誤認すると討つべき敵を見誤る。庶民の敵は政府ではない。あくまでも金融カルテル、そのオーナーたちなのだ。ネット界隈では彼らのことをディープステートと呼んでいる。

問題の急所は金融カルテル(そのオーナーたるディープステート)だけに「無から貨幣を創造する」権利が与えられている点にある。国民は代議士を含め無力である。最初から絶望的なハンデ戦なのだ。

おカネは負債:信用創造というからくり

現代のおカネは銀行が誰かに融資したとき、融資先の借金(負債)として生み出される(信用創造、英語ではズバリmoney creation)。creationとは創造と訳すように「無から有を存在させる」ことを意味する。金や銀やその他貴重なものがまず先にあって、あとでおカネになったのではない。虚無から銀行がおカネを作るのだ。

貸されたおカネは融資先が返済し終わると消滅する。中央銀行は政府に対して同じこと(国債発行)をやって、いわば政府に融資を行っている。

世の中のおカネは95%以上が負債として回っているから、みなが返済し終わるとおカネが文字通り無くなってしまう。債務なき資本主義は死滅するほかない信用(クレジット)とはこの意味での債務の言い換えに過ぎない。

大事な部分なのでもう一度繰り返す。現代の経済は誰かが借金しなければ回らない仕組みになっている。個人、企業、政府・・・例外はない。

政府の債務(支出)は義務

個人や企業は民間部門なので社会全体に対する責任がない。社会全体に対する責任は唯一の公的部門である政府が負っている。その政府が、おカネがうまく回らない社会で財政を絞るとどうなるか?困るのは企業や国民なのである。財政緊縮路線は土台が間違っている。放漫財政で国が破綻するのではない。十分に回さないから破綻するのである。ここを履き違えると日本の失われた30年のように悲惨なことになる。

マルクス主義者と利子

資本主義はマルクス主義者のいうようなブルジョワvsプロレタリアートの経済システムではない。銀行vs国民(政府を含む)の経済システムなのである。銀行側から見れば、融資が焦げ付いても実は大して困らない。政府を脅せば不良債権を処理してくれるし、正常運転なら市中で回転した融資元本が利子を生んでくれる。

利子とは、その分市中から余計におカネが抜き取られるということだ。利子は単なる仮構であって約束事に過ぎず、何ら実体のあるものではない。しかし、その動向は国債市場や株式市場を大きく左右し、影響はでかい。これも金融家に与えられた特権のひとつだ。

共産主義者はこの利子と負債のからくりを知っていたがゆえに、銀行に代わって資本(国民の資産)を中央政府に回収し、自らの意思で分配する方式を選んだ。もちろん庶民(プロレタリアート)のためにではない。銀行に対抗するためである。

すべての経済問題の根っこにはこの銀行に与えられた特権性がある。極論すれば、銀行はその特権を駆使して国家を乗っ取った。アメリカも日本もEU諸国も、いや共産主義諸国も開発途上国も同じ網をかけられているので例外は存在しない。

 

平和主義を維持すれば国が貧しくなる

このような銀行の特権性の下、庶民はいくら真面目に働いても豊かさを実感できない。確かに生活水準は向上したが、本来受け取れる収入を受け取れていないのも事実だ。

タイトルの “内国窮乏策” とは何か?それは以上のような資本主義のからくりの下、不作為を決め込む政府の庶民いじめの経済政策を指す。なぜ政府は不作為になるのか?銀行に逆らえないからだ。そこにはさらに戦後特有の法律的裏付けさえ存在する、

この点を正面から議論しているのが、評論家・佐藤健志さんの近著『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』だ。目からウロコの議論なのか、よく売れているようだ。

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法律にビルトインされた内国窮乏策

佐藤さんによれば、憲法と財政法が戦後政治にビルトインされ、”内国窮乏策” を助長する仕組みになっている。平和主義が財政規律を強いる構造になっているわけだ。この辺りの事情については、以下の三橋貴明さんの記事が参考になる。

財政法第4条

財政4条とはどんな法律かというと、次のような条項である。

第4条
国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。

前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。

第1項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。

いわゆる財政規律に関する規定だ。財政法は「日本に二度と戦争を起こさせないため」終戦後すぐに制定されたらしい。起案者自身がそう言っているのだから間違いない(下の引用文参照)。

財政法の非戦精神

共産党さんの簡潔な解説を見てみよう。

この規定は、戦前、天皇制政府がおこなった無謀な侵略戦争が、膨大な戦時国債の発行があってはじめて可能であったという反省にもとづいて、財政法制定にさいして設けられたもので、憲法の前文および第9条の平和主義に照応するものです。この点について、現行財政法の制定時の直接の起案者である平井平治氏(当時、大蔵省主計局法規課長)は、当時の解説書(「財政法逐条解説」1947年)で、次のようにのべています。「戦争危険の防止については、戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史をひもとくまでもなく、わが国の歴史をみても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば明らかである、……公債のないところに戦争はないと断言しうるのである、従って、本条(財政法第4条)はまた憲法の戦争放棄の規定を裏書き保証せんとするものであるともいいうる」

まあ、天皇制政府やら侵略戦争やらの「専門用語」はさておき、この財政法を大真面目に受け入れるくらい当時の日本は反省ザル化していたのである。

もとも公債はイギリスが対フランス戦争の戦費に窮して民間から資金を集めるために編み出した資金繰り手段であり、共産党さんが「公債のないところに戦争はない」というのは歴史的経緯を踏まえてた正しい認識だ。もしこの法律が本当に戦争を防止できるのであれば、なぜ世界に輸出しないのか?(笑)。

財政法の条文を読んでわかったことがもうひとつある。緊縮財政派(プライマリー・バランス派)は不作為でもなんでもなく、単に財政4条に忠実なだけだったのだ。きっと彼らは心の底から「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるのだろう。お役人の鑑(かがみ)である。

補則の “拡大解釈” 有効活用

財政法に屈する保守派ではなかった。彼らは隠然たる抵抗を続け、なんのかの言いながら例外規定をうまく使って「赤字国債」に手を染めた。それが1960年代後半だ。そして黄金の高度成長期が始まる。この点について共産党さんは次のように説明している。

財政法第4条には「公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」というただし書きがあり、これにもとづいて66年(昭和41年)以降、建設国債の発行が始まり、公共投資拡大を恒常化しました。さらに、75年度からは、財政不足をおぎなうために、赤字国債を発行するにいたりました。

保守派の積極財政は、憲法9条の “拡大解釈” で自衛隊を整備してきたのと同じ戦法に映る。戦後日本の奇蹟的復興はこうした保守派の “作為” なしにありえなかった。

健忘症と亡国

ところが困ったことに、人の記憶はだんだん薄れていく。憲法が足かせだとすれば、それとセットの財政法は手かせである。ソ連が崩壊するとアメリカ一択になった日本は手かせ足かせの二重拘束状態のまま、新自由主義やグローバリズムに傾斜していく。

政治家は大局観を失い、目先のニンジンを食らうことに専心し始める。反米、嫌米はいつしか従米、媚米に変わり、世界各国のGDPが軒並み拡大していく中、日本のみGDP横ばいで、生かさず殺さずのデフレ放置プレイを四半世紀も続けた。

さらに困ったことに、佐藤さんがブログで言っているように、リーマンショック以降、緊縮財政が世界の流行トレンドになってしまった。

積極財政の必要性について意識的に目覚めないうちは
ひとりでに緊縮財政の経路を進むようになっているのです。

ところが財政均衡主義や緊縮財政路線は

1)主流派経済学
2)新自由主義
3)グローバリズム

とも相性が良いと来る。

つまりは積極財政の必要性について
意識的に目覚めることを阻害する歯止めが
三重にかかっているのです。

ただし。

平和主義の明確な否定が今なお行われていない
というのも否定しがたい事実。
安倍総理だって「積極的平和主義」を説きたがるくらいではありませんか。

じゃあどうすればいいのか?

簡単である。憲法と財政法がセットで足かせになっているならセットで変えれてしまばいい。アメリカの傘の下で平和主義を唱えるような真似はやめ、財政法を改正して「普通の主権国家」に戻ればいい。せっかくトランプ大統領が新自由主義者に喧嘩を売り、イギリスもBrexitで加勢するというのだ。日本も尻馬に乗れ!そのためには、次期首相に「極右」政治家を選ぶくらいでちょうどいい。しかし、たとえ「極右」政治家を選んだところで、彼は公債の誘惑に勝てないだろう。問題の根は深い。景気は良くなっても国民に「本来の取り分」は与えられないだろう。

 

最後にふたたび金融のからくりについて

最初の問いに戻ろう。

経済成長はどうして国民を豊かにせず、むしろ貧困化するのか?

問題の根源が憲法でも財政法でもなく、実はカネの仕組みにあるからだ。カネが国民から資産を奪い取るように設計されているから、働き損なのである。働き損を自覚させないために、ありとあらゆる演出が施されて入るが、実態は搾取なのだ。

政府の不作為の罪なのか?本当に政府は加害者なのか?

カネの仕組みは法律に裏付けられている。そういう点で政府は少なくても共犯である。その限りでは加害者だ。しかし現代では、国債の発行なしに成り立つ政府がほとんどない以上、したくなくても国債を発行せざるを得ない。一方的な加害者とはいえない。

“内国窮乏策” は「豚は太らせてから喰う」典型的政策だ。新自由主義はその手段に過ぎない。以下に、その歴史的背景を簡単に振り返ろう。

イングランド銀行はゴールドスミス

貨幣は古代メソポタミアからあるが、国家が国民資産を担保(=税金)に公債を発行する仕組みが制度化されたのは17世紀末、イングランド銀行創設時に遡る。当時のイングランド政府は対仏戦争の戦費がどうしても欲しかったから、国民に何の断りもなく、国民資産を担保に “未来” からカネを借りるという「悪魔の契約」を貸し手と結んだのである。

そもそもイングランド銀行は銀行でも何でもない。元はゴールドスミス、金地金の預かり業者である。悪魔的な天才が、ゴールドスミスの預かり証をお金がわりに使って一儲けすることを考え付いた。

預かり証商売

ゴールドスミスが客から預かって金庫にしまってる金塊は滅多に空にならない。たいていは眠っているだけでは宝の持ち腐りではないか。いや、待てよ。在庫をかたに預かり証を発行したらどうだろう?金庫には現物が眠っているのだから、それは立派な裏付けのある証文だ。お金の一種として受け取ってもらえるだろう。しかも金と違って紙だから軽くて持ち運びしやすい。

ゴールドスミスの証文商売は当たって、その便利さに慣れた顧客は金そのものではなく金の預かり証を交換することで、様々な取引を決済するようになった。

この預かり証こそ現在の紙幣の原型なのである。

ゴールドスミスは非物質的な意味で最も成功した錬金術師となった。紙きれをお金に変えたのだから。

この紙きれをお金に変える錬金術を信用創造(英語ではズバリmoney creation)と呼んでいる。昔は証文という実体あるモノを発行していたが(その名残が紙幣だが)、現代の信用創造では紙きれさえ必要ない。オンライン上に数字を打ち込むだけだ。

信用創造に基づく金融システム全体を部分準備金制度(Fractional Reserve Banking)といい、自己資本率とか、しかつめらしい呼び方で煙に巻いているが、要するに、民間銀行は担保(顧客の預金)の何倍、何十倍ものお金をつくっていいよ、という法律のお墨付きに過ぎない。

負債ベースの “銀行本位制” 経済システム

現代のお金はいつ生まれるのかといえば、銀行がローンを組成し、貸出先の口座に融資金額を書き込む瞬間である。コンピュータ上の電子信号が口座の残高として打ち込まれるや否や、貨幣価値を持ち始めるのだ。

こうして銀行は政府に対しては国民の税金を人質にとって公債を発行させ、自分はのんびり利払いを受ける。民間(企業、個人)に対してはキーボード一つでお金を貸し付け、これまた利子で稼ぐ。なんのことはない、資本主義とは錬金術(=無からカネをつくる権利の合法化)を基本として、負債の返済を燃料に走り続ける「政府と国民総ぐるみの債務奴隷化」のことだったのだ。

憲法+財政法+負債創造のトリプル内国窮乏策

だから現在のように、国が経済成長を続けても国民が豊かにならないのはけっして自然な成り行きなどではない。メディアや学者はそうでないように装っているもしれないが、本質は金融カルテルによる国富の簒奪である。完全に人為的な現象だ。

それでも目くらましは用意されている。国家の実体経済が成長している間はそのおこぼれが国民を潤すし、このデフレ放置、GDP横ばいの日本でさえ「それなりに豊かで食える」。

ところが先進国では実体経済の拡大が鈍り、貨幣の罠がじわじわ効き始めてきた。本来はリーマンショックという決定的なショックイベントで軌道修正を行うべきだったが、為政者は金融カルテルと一蓮托生の道を選んだ。現代の若者は聡明にもその本質に(無意識的にでも)気づきており、働けば働くほどドツボに嵌まることに抵抗し始めているが、金融カルテルにとっては痛くもかゆくもない。

信用創造の怖さは、カネが国民の借金として生まれる点だ。銀行はつねに損しないできている。上図では負債の付け回しで国民が借金漬けになる事態を「死のスパイラル」と呼んでいる。

合成の誤謬

緊縮財政派が国債発行を嫌う背景には、こうした債務奴隷状況への(無意識的な)ルサンチマンがあると思われる。彼らの主張はある意味正しいのである。問題は彼らの正しさが、このシステムを続ける限り、負の作用しかしない点にある。彼らが勢いづけばづくほど金融カルテルはほくそ笑む。カルテルにとってお金の出元は国民でも政府でも同じだ。現行の錬金術が機能しさえすれば身は安泰だから。

先進諸国の若者は日本でもアメリカでも軒並み左傾化しつつある。彼らのネットリテラシー、SNSリテラシーが明らかに事態の本質を掴み、新時代の社会主義を求めつつある。

問題は、緊縮財政派の戦後的平和主義や緊縮財政主義も、若者の左傾化も、負債ベースで運転されている “銀行本位制” の下では、結局、彼ら自身のためにならない点である。その間にはわけのわからないリベラルな力が伝統社会に浸透し、「国体」を蝕み崩壊させていく。金融カルテルにとって、刃向かう一体性をもたない国民国家ほど御しやすい相手はいない。

こうした現実に鈍感な高齢者たちや富裕層はカネを握りしめ、変化に敏感な若者たちに回そうとしない。同じ信用創造が差配する金融システム下で政治革命などしたところで何の意味もない。本当に討つべき敵は政治ではなく金融カルテルなのだから。残念ながら世代間の意識ギャップは合成の誤謬として、”銀行本位制” の温存に貢献してしまっている。本来はその虚妄を知らしめる役割を担うはずのメディアは金融カルテルのプロパガンダ機関として運営されている。

もはや誰も国民経済を考えない。「経世済民」は死語となった。金融カルテルの高笑いはいつまで続くのだろうか。