[貨幣考1] 仮想通貨と時間通貨、為政者の不作為と西郷隆盛の戒め

2018年10月8日投資格言, 独自コラム, 貨幣論

以下は通常の相場分析とは違う、おカネ(貨幣)そのものに関する論考である。これはその第一弾。初稿は2018年10月。

スポンサーリンク

前説

NHKスペシャル「マネーワールド」が好評の模様。この記事は第1集 “お金が消える!?” に関連してお金について考える。

キャッシュレス推し:現金が回らないのはキャッシュのせいなの?

第1集 “お金が消える!?” の底流には、お金なんかいくら刷っても無駄だよという「アンチ安倍=黒田」のセンチメントが貼り付いていて、観ていてあまり気持ちよくなかった。

「cashless」の画像検索結果

いまやキャッシュは、お金全体の3%にも満たないマイナーな存在。それだのに、紙幣は使うのに抵抗感があるから回らないとか、アングラマネーにも使われやすいから無用の長物みたいな論調はいかがなものか。経済情報番組としてはいかにも粗雑な状況設定である。

  • ヴェネズエラ(後進国モデルの代表):お金を刷りまくる⇒お金の信用が低下する⇒ヴェネズエラのようなハイパーインフレになって明日の生活にも困るようになる。
  • スウェーデン(先進国モデルの代表):現物だと抵抗感があって使わないからキャッシュレス化を進めたら(手の甲にICチップを埋め込む人までいる)、お金が回り始めた。使う抵抗感のないキャッシュレス化が正しい方向だ。

こういう入り方をすると、↓のような低次元の自称エコノミストがいかにも喜びそうではないか。

違います、確信犯エリートの不作為のせいです

問題を日本国内に絞る。日本でお金が回らないのは、現物紙幣が貯蓄欲を煽るからではない。考えられる理由は大きく2つある。

  • まず使おうにも使えないから回らない。可処分所得の縮小で、庶民が相対的に貧困化しているのが元凶である。将来不安という常套句も、その背景には貧困化への恐怖があるだろう。
  • 次に、こちらの方が大きな要因だが、為政者にお金を回そうという明確な意思も戦略もない。簡単にいうと国民のための政治をしていないのだ。アベノミクスは一方で異次元緩和で財布のひもを緩めようとしながら、他方で緊縮財政、規制緩和、民営化の新自由主義政策を連発し、なおかつ消費税増税を行って財布のひもを締めさせる、という矛盾した動きをしている。デフレ脱却の勢いがそがれ、景気は良くならない。

どちらも、近隣窮乏策ならぬ「内国窮乏策」(クリモネの造語)とでも名づけるほかない不作為の日本弱体化政策である。

「内国窮乏策」?

「内国窮乏策」は国政の根幹に抵触するので売国政策と呼んで差し支えない。いろいろ細かい議論はいい。また問題は経済だけに限定されない。要は日本のためになる政治をしているかいないかで判断すべきだ。

では、本来あるべき国政の根幹とは何か?南洲西郷隆盛の教えを確認しよう。

西郷南洲翁遺訓集 第三ケ条

政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其他百般の事務は、皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして、他を先にするは更に無し。

現代語訳(一部修整):政治の根本は教育向上、国防整備、農業振興の三つである。他の諸々の事業は、皆この三政策を補助手段である。この三つの中で、時の成り行きによってどれを先にし、どれを後にするかの順序はあろうが、他の政策をこの三つに優先させることがあってはならない。

三大事業のうち、「農を励ます」は現代風に言い換えるなら「国民経済の振興」だろう。現在の安倍政治を見てほしい。

  • 第一の教育に関しては「なんで早期英語教育なの?」「国語教育じゃないの?」「なんで大事な基礎研究の予算を増やさないの?」「なんで今ごろ道徳教育の復活なの?」といろいろ問題はあるが、まあ他よりましなので及第点をつけるとして、第二、第三はどうか?
  • 第二は落第だ。相変わらずアメリカ依存を続けている。
  • 第三も落第。第二をおろそかにした結果、本当にしたいことができない。

「西郷隆盛」の画像検索結果だから、国民を貧しくすることで、あがりを世界支配層に貢ぐ阿諛追従策をとるしかない(貢納が政権の延命策)。そして基本政策は、国民経済の改善ではなく金融経済を上向かせることに向く。金融マフィア中心の世界支配層への「貢納」である。

失敗が証明されている新自由主義政策

その証拠に、アベノミクスが嬉々として推し進める新自由主義路線は1980年代以降使い古され、すでに「国民経済への悪影響が実証済み」の政策ばかりであり、今ごろ周回遅れでやっているのは完全に確信犯である。日本の政治家や官僚は面従腹背すら諦め(昔は必死に逆らっていたのである)、恥ずかしげもなく「貢納政治」を行うようになった。古代の対隋唐独立以来の、屈辱的属国外交である。

安倍政権は憲法改正などと勇ましいことを言いながら、国民に大所高所からの国防論を展開できない。国防が国の基本にあり、国防が整備されてこそ、独自の経済政策が実行可能となって国民経済を富ませる方向に進めるのだ、という議論がいっさいない。国防論は国政論であり、ドンパチや北朝鮮対策とは次元が違う話なのである。

さらに悲劇的というのか喜劇的というのか、野党はもっとひどい。低能な上に売国奴である。安倍さん以外に選択肢がない。消去法の選択でしかないのに支持は盤石なのである。めぐりめぐって国民経済の緩慢な自死行為だろう。

我慢強い日本国民も、そのうち現代版百姓一揆をおこすのではないか。その突破口が仮想通貨など代替通貨の話になるのではないかと思う。

世界支配層の不作為

では、日本が「貢納」している世界支配層とは誰か?そんなに強いのか?

金融マフィア、国際金融資本、ロスチャイルド、ロックフェラー、ユダヤ人、白人、アーリア人、名誉白人・・・なんと読み替えても似たようなものだが、要するに世界の政治経済権力の中枢を担う政財官エリートの “疑似共同体”、あるいは “共通利害集団” のことである。

彼ら自体も一枚岩ではなく、派閥に分かれて競い合っているというから、薄く広い意味で現状の資本主義搾取構造を温存したい勢力といえばいいか。

彼らエスタブリッシュメントは、なぜ下々にお金を回さないのか?けちなのか、さもしいのか、強欲なのか?

ぜんぶ当たっていそうだが、要するに極限まで収奪したいということだろう。マモンである。彼らの骨髄には「不足と略奪」の世界観が染みついている。貧しかった頃のトラウマである。これは歴史を見ると、西ヨーロッパ人もユダヤ人も選ぶところがない。いまでもギリシャ・ローマに文明人としての憧れがあるのは、ギリシャ・ローマ人が例外的に「貧乏くさくない」からではないかと思う。

現支配層の「不足と略奪」の世界観はフロイトのいう強迫神経症に当てはまると思うので、少しフロイト先生の話を聴いてみよう。

フロイトのお告げ

関連画像フロイトはその晩年『モーセと一神教』という問題作を発表した。ユングも『ヨブの答え』という問題作を書いているから、精神分析者というのが科学者というより、歴史家であり文学者であり、そして何よりも宗教家であるのがよくわかる。

フロイトは『モーセと一神教』のなかで、ユダヤ一神教の起源は「集団的強迫神経症」にあるとトンデモなことを言っているのである。「宗教はビョーキだよ」という真面目なお告げだ。これに世間は騒然とした。いまも公式アカデミズムには受け入れられていないのだが、ユダヤ人自身の自民族への精神分析だけに迫力があり、しかも宗教の根幹に関わることなので重い。

フロイト先生のご託宣、当たらずといえども遠からずなのではないか?

フロイトによれば、イスラエル人は本来多神教徒で、エジプト人(!)モーセのもたらした外来宗教になじめず、とうとうモーセを恨むあまり殺してしまった。その疚しさを覆い隠すため、かえってモーセの遺した一神教遺産を制度化した、というのである。

現代の為政者が、盗みに盗んで、罪深さの前にもう返せない。罪滅ぼしをすれば復讐されるだろう・・・だったら極限まで搾取を続けよう・・・そう考えても不思議じゃない。強迫神経症的なユダヤ教の流れをくむキリスト教徒であれば、そういう心理になりそうではないか。

楽天市場

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫) [ ジークムント・フロイト ]

価格:1,296円
(2018/11/11 23:39時点)
感想(2件)

 

不足と略奪の世界観

およそ人為的な現象は人間の脳内で起きていることの反映だ。経済学が高尚な理論や技術論をいくらぶち上げても、実際に動かすのは天上人たちであり、彼らの「意識改革」がなければ結局、現状は維持される。

それならいっそ「革命!」・・・となるようでは、過去の失敗(たとえば共産主義者のエラー)に何も学んでいないことになる。そもそも論でいえば、資本主義経済は「不足と掠奪」のシステムとして生まれ育った。ヨーロッパが貧しかった時代の、足らないモノはあるところから奪えという植民地⇒帝国主義時代の発想である。

「scarcity model economics」の画像検索結果

関連画像

WANT(欲望)をNEED(不足)と認識させる希少性の経済学

資本主義の補強に使われるのは、希少性(scarcity)の概念で、需要(want)に供給(resource)が追いつかないという理屈である。需要を一種の贅沢(want)ととらえ、必需(need)とは次元の違うものと考える。実際、先進諸国は必要(need)のないものを買いたいという欲望(want)の上に成り立ち、これを高度消費経済といって威張っているではないか?

「不足」(need)の大状況があったのは過去の話で、技術革新で生産性が上がって「不足」の問題はとっくの昔に克服済みだ。現代は遊休施設や大量在庫が経営者を悩ませる供給過剰の時代であり、その気になればヴェネズエラなど一瞬で救える。

にもかかわらず救わないのは人種差別以外何ものでもない。資本主義は格差がないと利潤を得られない仕組みだから、一定数、資源を安値で売る貧しい国が存在しなければならない。

かつてそういう不当な扱いに異を唱えて世界史の中心へ勇躍した日本は、敗戦後、すっかり名誉白人三号の地位に甘んじて、国防ひとつ議論できない銭金亡者になり下がっている。もう一度、南洲先生にお灸をすえてもらおう。

南洲さんにエスタブリッシュメントを叱ってもらおう

彼の文明論はよく本質をついている。

第十一ケ条

文明とは道の普く行はるるを、賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分からぬぞ。予、甞て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍の事を致し、己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其の人口を莟めて、言無かりきとて笑はれける。

​現代語訳:文明というのは道義、道徳に基づいて事が広く行われることを称える言葉であって、宮殿が大きく立派であったり、身にまとう着物が綺麗あったり、見かけが華やかであるいうことではない。世の中の人の言うところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮なのか少しも解らない。

自分はかってある人と議論した事がある。自分が西洋は野蛮だと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。いや、いや、野蛮だとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでに野蛮だと申されるのかと強く言うので、もし西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、開発途上の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮であると言ったところ、その人もさすがに口をつぼめて返答出来なかったと笑って話された。

「西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと導くべき」なのに、「開発途上の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮である」。現代の世界支配層、この時代と何も変わっていないではないか?

もちろん南洲先生は、このように鷹揚で寛大な文明国など実際の歴史上に存在せず、人間の理想の中にしかないことは百も承知だったろう。それでも理想を理想として保持して身を律さなければ、それこそ何のための「文明開化」か?

新しい動きはあるが・・・

エリート層の不作為など直しようもないというので、「勝手にやりましょう」と出てきたのが仮想通貨や時間通貨だ。番組ではアンカーという言い方をしていたが、究極的には、お金の担保をどこに置くかが問われることになる。お金はある程度の数の人間が使わなければ成り立たないからだ。

為政者に期待できないから、国(軍事力、外交力、技術力、生産力などの総和としての国力)はアンカーにしない。仮想通貨派は、オレたちは技術(ブロックチェーン)をアンカーにして信用を勝ち取るぜ、という。時間通貨は、人間の寿命(寿命に差別はない!)で信頼の輪を広げるぜ、という。

まあ、投機が主体になっているうちは仮想通貨が既存の法貨と肩を並べることはない。そもそも既存の通貨で値打ちを計っているのだから、完全に既存通貨におんぶにだっこである。アンカー問題が真剣に討議されるのは、仮想通貨それ自身の価格で財が売り買いされ、ある程度の規模を持つ独立した経済圏を形成したときだろう。

エンデの遺言から20年

一部ではあまりに有名な「エンデの遺言 根源からお金を問う」をNHKが放送したのは1999年、いまからおよそ20年前だ。当時は仮想通貨のかの字もない時代だったが、地域通貨やゲゼルの錆びるお金の話は衝撃的だった。昨日の番組を観るくらいなら、こちらを観ることをおススメする。質は断然高い。

Nスペ “お金が消える!?” の中でもゲゼルの錆びるお金(減価紙幣)の発想をデジタル化した地域通貨の話が紹介されていた。

「時間通貨であれ暗号通貨であれ、現在の主要通貨と交換できる/紐づけられる、ようになってしまうと、新しい経済圏ではなく実質的に今までの経済圏に取り込まれてしまう」。番組に出演していた安田さんのコメントだが、これは論としては正しい。

国を捨て部族に戻れるのか?

しかし、営々たる歴史を持つ国という枠組みを放棄して、群雄割拠よろしく多くの独自経済圏を競い合わせることが全体の利益に結びつくのかどうか?

議論のあるところだろう。クリモネには「気の合う者同士勝手にやりましょ」というリベラルな人たちのノリ、その部族主義に、どうしても拭えない違和感がある。

みなさんはいかがだろうか?